結婚生活

の赤ん坊のころの記憶は皆無だ。

写真で読み取るしかないが、女の子なのに坊主の写真があったり

姉に抱っこされていたり

父にお風呂に入れてもらっている写真があったりした。

どこにでもある、普通の家族。の様に見えるが、現実はそんなに甘くない。

 

 

姉の妊娠が発覚した母は、父との結婚を決めた。

母は初婚だったが、父には2回目の結婚だった。

父には男の子の連れ子が1人いた。母と結婚する当時、10歳ぐらいだったと思われる。

母は父の連れ子とは上手くいかなかったと話していたことがある。

ただでさえ苦難のスタート。

だが苦難は更に母を苦しめることとなった。

 

結婚を機に芸者を辞め、温泉街を離れて、父の家へと母は引っ越した。

出産後は喫茶店でアルバイトしながら家計を支えた。

父はミュージシャン。

まともなサラリーマンと違って、定期的な収入もなければ、稼いだギャラはその日の晩に飲み代となって消えてしまう。

ライブの仕事が続けば夜はいつもいない。

母は連れ子と乳飲み子と3人で慎ましやかに暮らす以外の選択肢は無かった。

そんな生活が続いたが、私が母のお腹の中で成長し始めた。

嫌気がさしてきていたが、母は産むことにしたようだ。

そうして私が生まれたが、生活は相変わらずだった。

連れ子は中学生になり、悪さを繰り返し、警察のお世話にもなった。

私が2歳になる頃、母が芸者時代お世話になった置屋のお母さんが尋ねて来た。

お母さんは母を見るなり驚いて言った。

「どうしたの!帰っておいで!私が子供たちの面倒見るから!」

痩せてげっそりし、疲れきった母を見て、置屋のお母さんは離婚を勧めた。

小さな私たちを連れて母は離婚し、芸者に返り咲いたのだ。

結婚生活は4年程で幕を閉じた。

 

当時のことは、まだ2歳だった私は全く覚えていないが

4歳だった姉は微かに覚えているようだった。

 

温泉街の小さなアパートに引っ越し、芸者の娘として生活を強いられた。

母は夕方から遅いと朝方まで仕事でいないので、夜は置屋のお母さんが私たちの面倒を見てくれていた。

次第に成長し、私が保育園に入園すると、夜は姉妹2人だけで過ごすようになっていった。

地獄の始まりであった。

最初の一歩

和もそろそろ終わりを迎えるころ。

子供たちは夏休み直前で浮足立つ季節に私は産まれた。

 

 

産まれることは本当におめでたいことだろうか?

幸せなことだろうか?

必ずみんな生まれてきて良かったと思えるのなら

なぜ赤ちゃんは必死に泣くのだろう。

辛い未来が、試練が、わんさか待っていて

それでもなお希望にすがって生きていかなくてはいけないことを

分かっているから悲しいんじゃないだろうか。

産まれた時の私は、何を思って必死に泣いていたんだろう。

 

 

父はジャズミュージシャン。

母は温泉街の芸者として働いていた。

そんな異色な2人の間に、2番目の子供として生を受けた。

 

2歳上の姉がいた。

とても賢く、とても意地の悪い、大嫌いな姉だ。

 

この先何十年と続く試練が始まった憂鬱なunhappy birthday.........